改元は鉱物発見のお礼
2020/6/19 16:06
今日は元号の日です。
645年(大化元年)のこの日、蘇我氏を倒した中大兄皇子(後の天智天皇)が、日本初の元号「大化」を制定しました。
以来、現在の「令和」まで248の元号が定められています。
現在日本は、明治以降一世一元制を採用していますが、明治以前は天皇の交代時以外にも随時元号が変わりました。災害や天変地異などの理由で改元をしていたのです。
その中に、鉱物発見が改元理由となった時もありました。
奈良時代に、埼玉県秩父市から自然銅が献上されました。このことから、元明天皇は元号を慶雲から和銅へ改元しました。皆さんよくご存じの和同開珎です。
また、聖武天皇の時代には陸奥で自然金が見つかり献上したことから、元号を天平から感宝へ改元しました。
天皇は金や銅が見つかると吉兆ととらえ、改元をしたのです。
当時から人間にとって貴金属はものすごく大切な物であったことがわかります。
しかしながら、自然銀が見つかって改元した記録はありません。
何故でしょう?
それは、銀は硫黄や鉛等の化合物として見つかることが多いためです。
自然金や自然銅は見つけやすいのですが、自然銀は希少なため簡単には見つかりません。
一般的には、自然銀が見つかる可能性は低いですが、見つかったら万に一つの可能性で改元するかもしれない、いやそんなはずはないか、一世一元制だものな。自分の中で問答しながら過ごした改元の日でした。
渋沢栄一も寄付をした??
2020/6/18 14:54
シンカブルでキャンペーン活動を始めて18日目。おかげさまで121人という多くの皆様からご寄付をいただき、その勢いはとどまる様子をみせません。本当にありがとうございます。
先日、私どもは皆さんにセカンドゴールをお示しして、石見銀山資料館のキャンペーン活動第2章を歩み出しました。
引き続き、応援よろしくお願いいたします。
さて、ここ石見銀山資料館がある島根県大田市大森町には、江戸時代の代官井戸平左衛門を御祭神とする井戸神社があります。
井戸神社は、1879年(明治12年)に創建されました。この井戸神社、1916年(大正5年)に今の場所に再建されたのですが、当時衆議院議員の恒松隆慶が井戸神社の移転新築にかかる資金の寄付を呼びかけたところ、多くの賛同が得られ、寄付が集まりました。寄付帳には、桂太郎内閣総理大臣、小村寿太郎、大倉喜八郎(大倉財閥設立者)と、当時の政治の中枢にいた人たちも名を連ねています。
そして、なんと次の新一万円札の顔となる渋沢栄一も寄付をしています。来年のNHK大河ドラマの主人公でもありますよね。
このような、世の中を動かしていた人々までもが、心を寄せる神社が石見銀山にはあるのです。
ちなみに、井戸神社の扁額は幕末の志士、勝海舟の自筆です。
石見銀山資料館のキャンペーンでは、お一人お一人のメッセージを大切に読ませていただき、121人の方々から賛同を得ました。私どもにとっては、お一人お一人がかけがえのない存在で、資料館存続にはなくてはならないと思っております。みなさんの力を総動員させて、どうか私どもをゴールまで導いてくださいませ。
和菓子とマスクと銀山
2020/6/17 16:44
昨日6月16日は、「和菓子の日」でした。
平安時代の848年6月16日に、仁明天皇が16の数にちなんだ菓子、餅を神前に供えて疫病退散を祈願したという故事に基づいて、全国和菓子協会が1979年に制定しました。
茶道や煎茶道の献茶の際にも菓子を供えますが、この頃からそういう習わしがあったとは今も昔も人間が考えることはそう変わらないように思えます。
さて、現代の疫病といえば、新型コロナウイルス肺炎。日本だけでなく、世界中が混乱しました。疫病感染予防として、現代ではマスクを用いていますが、ここ石見銀山では江戸時代に鉱山病予防として防塵マスクを用いていました。これは岡山県笠岡市の医師、宮太柱が考案したもので、「福面」と呼んでいました。絹素材の周囲を鉄で覆い、真ん中にも鉄を通した3Ⅾ使用。その内側に梅肉を挟み、梅の酸でマスクに付着する油煙や粉塵を防いでいたようです。
日本衛生材料工業連合会(東京)によると、日本でマスクが使われ始めた資料として明治初期の1879年の広告が見つかっているが、それ以前の資料は確認されていないそうです。もしかすると、銀山の「福面」が日本最古のマスクとして紹介される日も近いかもしれません。
今日は、その「福面」についての撮影を地元のテレビ局に取材をしていただきました。地元の皆さんにもこの「福面」について広く知っていただいているところです。
昨日のお茶の稽古では、もちろん皆さん「和菓子の日」をご存知で、「福面」の話もしながらキラキラ輝く和菓子をいただきました。
佐藤重利さんより応援メッセージをいただきました
2020/6/16 09:48
5月31日 資料館が配信しているネットで、このたびの件について知り驚きました。仲野新理事長就任早々より、寄付を募るという苦渋に満ちたご決断、その心中お察しします。石見銀山のシンボルでもある資料館を何としてでも「灯」を消してはならないという強い信念が、今回の決断を促したと思います。私も資料館の設立された経過を知るものとして共鳴し、応援をしなければと考えました。
私は平成18年から昨年までの13年間、石見銀山ガイドの会に籍を置き、多くの観光客に「おもてなし」を通じて銀山の魅力をお伝えしました。一方、投稿活動にも積極的に取り組み、特に地元新聞である山陰中央新報の「こだま欄」には掲載40回を数え、また投稿に当たっては、銀山の秘められた「影」の部分を中心に取り上げてきました。この頃から私は、資料館に出向く機会も多くなりました。
この資料館も設立時は存亡の危機があったのですが、地元住民の方々の熱意が危機を乗り越えさせ、現在に至っています。この事実を知った時、ぜひ皆さんにこのことを知ってほしいと思い、平成22年12月「町民のシンボル銀山資料館」と題して投稿。好評であったことを覚えています。
投稿文の一部を紹介したいと思います。
「大森の町民のまいた種が芽を出し、さらに大輪の花を咲かせた瞬間でした。」
私は世界遺産登録時の資料館を町民のシンボルと表現し称えたのです。このようにして守られてきた、かけがえのない資料館は私の心の支えになっております。大切な「灯」を絶やさない為にも力を貸してほしいと思います。
大田市在住 佐藤 重利
スタッフより
佐藤さんは、大好きな資料館だからと自ら応援メッセージをお書きになり当館へ豪雨の中、持参してくださいました。そのお気持ちをありがたく頂戴し、大好きな佐藤さんとこれからも活動をしていきたいと思っています。