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寄附先

NPO法人 石見銀山資料館

仲野義文

支援総額

1,637,000円

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1,637,000円

支援者数

154人

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終了

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茶の湯と銀山人

2020/7/5 14:54

今日7月5日は、栄西禅師が没した日です。栄西は、日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山です。留学中の南宋から茶の種を持ち帰り、その種を栽培して貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作ったと言われています。喫茶の習慣のきっかけとなった人です。

今日は茶の湯と銀山についてのお話です。

皆さんの中にも、人生一度は茶の湯に親しんだことがあるという方が多いと思います。

島根県は、松江市を中心に茶の湯文化が盛んであり、毎年日本三大茶会の一つでもある松江城大茶会が開催され、県内外の多くの方が訪れ、茶の湯に親しんでいます。

茶の湯といえば、表千家、裏千家、不昧流など、流派と呼ばれる集団に分かれます。また、茶道もあれば煎茶道もあり、現在日本では広く茶に親しんでいます。

様々な所作や流儀を大事にする流派が存在する一方で、茶の湯を志す人は大抵の場合、免許皆伝に多くの時間と費用を要するので一流派に限られてしまいます。

皆さんはそれを窮屈に感じたことはありませんか。

江戸時代にも流派は存在しますが、もっと自由で軽やかです。

ここ銀山でも代官を中心にそれに関わる人々が茶の湯に親しんでいました。

お茶の流派がその地域に広まっていくルートとして、代官所の人的なつながりというものがありました。

他方、地元の師匠がいてその人に習うというルートもありました。

いくつかの流派が広まるルートがある中で、銀山のある役人は不昧流と三斎流の二つの流派を学び、茶に親しんでいるという資料があります。

私達からすれば、なんと軽やかなことかとさえ思えます。一つの流派に縛られることなく、また身分を超えてそれぞれの流派の良さを学んでいく。現在茶会に出向けば、様々な流派にふれることはできますが、学ぶ機会はそうありません。大変長い時間を要するからです。

もう一つ、皆さんと考えなければならないことがあります。銀山で茶の湯に親しんでいた時代の背景です。

この時代、銀山では往年の頃と比較するとあまり銀が取れなくなっていました。鉱山は銀の産出量で評価しますから、一般的にみれば廃れた町になっていました。にも関わらず、銀山人は狩野探幽や雪舟の絵を購入し、茶会を開いている。茶道具を購入している文書もたくさんあります。

鉱山町を評価する時に、単に銀の産出量で評価するのではなく、鉱山町に住む人々の暮らしに視点を当てて眺めてみるのもよいのではないかとも思います。

そう考えていくと、江戸末期、銀の取れ高は少ないけれど、生き生きと茶の湯を学び、親しんでいる銀山人の様子が目に浮かびます。

皆さんも、そんなことを考えながら好きなお茶を一杯飲んでみてはいかかですか。


館長の仲野です。

今日は「福面」のご縁で交流がはじまった福山市の方が、ご夫婦で来館していただきました。雨天にもかかわらず遠方からお越しいただき、本当に感謝申し上げます。

私は博物館の役割はインターフェースだと考えています。コンピューター用語として使用されるインターフェースは、異なる2つのものを仲介するという意味です。身近なものではパソコンとプロジェクターを繋ぐHDMIやUSBメモリーなどがそれにあたります。

当館も異なるものを仲介するという点ではインターフェースといえます。それは、来館者と資料を仲介する重要な役割を担っているからです。資料と人とをつなぎ、さらにその資料を介して人と人とがつながる。そのような施設になることを理想としています。

ところで、福面を考案した人物は宮太柱という医者ですが、彼は中村耕雲を通じて代官屋代増之助が招いたものです。中村耕雲は、備中国後月郡高屋村の本草学者で、屋代代官は彼を招聘して銀山領内の薬草調査を行わせていますが、その目的は農村の振興策でした。

屋代は、山野に自生する薬草を農民に採取させ、これを大森町の商人を通じて大坂道修町に販売し、その利益を農村振興に役立てようとするもので、今で言う葉っぱビジネスです。今年はこの辺りをテーマに研究したいと考えています。

本日福山市よりお越しいただいた方には、中村耕雲についてもご教示いただいています。近いうちに現地調査を行う予定です。その成果は、追ってお知らせしたいと思います。

※写真は「採薬稼」の鑑札


私は、この大森町で生まれ、育ち、いつの間にかこの町が好きになりました。

現在の資料館の建物は、幼少期を過ごした保育園であり、前庭の紅梅の木に登って町並みを眺めた思い出の場所です。

昭和51年に石見銀山資料館として開館され、40年近い月日を地元の諸先輩方が努力されて、建物を残すと共に、故郷の歴史や文化の根っこをしっかりと守り伝えて下さったような気がします。

そして、微力な私が大森町のまちづくりに関わって出会ったのが二十数年前のまだ若かりし仲野館長でした。

仲野館長は、私達に「石見銀山には、世界に誇れる価値がある!」とおっしゃいました。私が初めて世界遺産という言葉を聞いたのは忘れもしない資料館の庭でした。

「おおもり学」と題して毎年行われる、仲野館長さんのお話を老若男女の町民で聞く機会は貴重です。

また、仲野館長は町民の思い出話から、昔のお祭りの賑わい(井戸神社の花飾り)をもう一度やってみればと背中を押して下さいました。今では幼児から高齢者まで町民みんなの活動に広がっています。

「大森町で一番の大木楠の木は、大森を行きかう人々の暮らしをずっと見てきたんだよ」と私達の興味を引き出して下さいました。その言葉でお祭りや行事の聞き取りをするきっかけを作っていただき、世代を超えて一緒に故郷の学習を楽しんでいます。

こうして、いつも私達の活動を後押しして下さる石見銀山資料館の皆様に感謝です。

これから先、親子三世代で手を繋いで出かけて行ける故郷の資料館。

そんな未来を想像しながら応援しています。

                  大森町民 いも娘(むす) 鹿毛美紀子

※いも娘(むす)は、19代代官井戸平左衛門の親衛隊として平成15年に発足した大森町のグループで、現在も活動中です。写真は、いも娘が大森の人達と共に、大森の町を守り、この町の素晴らしさを未来の子供たちに伝えたいとの思いで作成した資料の表紙です。


館長の仲野です。

今日7月2日は石見銀山遺跡が世界遺産に登録された記念日です。

石見銀山遺跡は2007年、ニュージーランド・クライストチャーチで開催された第31回の世界遺産委員会にて登録が決まりました。5月にはイコモス(国際記念物遺跡会議)の評価では「登録延期」との勧告を受けましたが、石見銀山での鉱山開発が自然と共生した点が認められて晴れて世界遺産となりました。

石見銀山の審議は6月27日から28日にかけて行われました。私は世界遺産委員会の審議の最中、7月2日に放送予定のTBS テレビ『世界遺産』の監修を依頼されていたためナレーション原稿の最終チェックチしていました。ディレクターからは登録されなければ放送は中止とのお話を伺っていたため気が気ではありませんでした。しかし、予想を覆して登録の決議となり 番組も無事放送となりました。オンエアーでエンドロールに名前があったときの感動は今でも記憶に残っています。早いものであれから13年が経ちました。

今年はコロナ禍の影響で、石見銀山の来訪者も少なく、寂しい記念日となりました。来年には多くのみなさんにお越しいただけることを期待したいですね。

ところで、このような時だからこそ石見銀山について考える意義があるように思います。なぜなら、コロナ禍はある意味グローバル化の影響と無関係ではないからです。中国で発生した新型コロナウイルスは地球規模の人の移動によりたちまち世界中に蔓延しました。新型コロナのパンデミックは、まさにグローバル化がもたらした結果といえるでしょう。

このグローバル化の端緒は16世紀であり、その推進力となったのが石見銀をはじめとする銀でした。つまり、私たち人類は銀という鍵を使ってパンドラの箱を開けてしまったのです。もう後戻りはできません。これを克服できるのは国や地域、人種・民族を超えて相互に理解し、協力し合うことだろうと思います。

世界遺産石見銀山の地から発信できるメッセージとは、このようなことだと考えています。


34567813

NPO法人

石見銀山資料館

〒694-0305

島根県大田市大森町ハ51番地1

0854890846

http://igmuseum.jp/

代表:仲野義文

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